正月と餅2012年02月10日 22:09


餅つき

 お正月は、どこでも、しめ飾りをし、神だなに鏡餅を供え、お雑煮を食べて、新しい年を祝う。三か日ともお雑煮のうちが多いが、中味はさまざまであん入り餅のところもある。
 松の内は、古来の行事や郷土の慣わしが多い。農家は、くわ初めといって、田んぼの一角を清めて鏡もちを供え、豊作を祈る商家は、帳祝いといって、新しい元帳などに鏡もちを供え、商売繁盛を願う。
 A新倉敷では、毎年、にぎやかにお正月の餅つきをしている。親類同士で、たくさん餅をつくところもある。15日は小正月とか女正月といい、またお餅である。私が子供のころは、改暦の名残りか、新正月、旧正月と、二度お正月を迎えていた。
 高梁市の方で、栃木県の日光町長をされたこともある清水比庵さんは、歌や書、画に秀でていた。いつぞ、「ふるさとの餅は色白柔肌のまろくめでたき乙女餅かも」と詠んでいる。
 お餅は、まん丸いものとばかり思っていたら、私が東京にいたとき、お雑煮の餅は、四角であった。今はどうだろうか、それに、お雛様に備えるお餅はひし形である。
 お餅にまつわることわざも、いくつかある。「たなからぼたもち」は、思わぬ幸運に恵まれることで、良い。でも、「しりもちをつく」は良くない。だれも転ばないで、日々楽しく過ごしたい。

  松の内 友ら来たりて もちを焼き

(2004年1月 ままかり掲載)


餅

◆ 旧暦 ◆ コラムままかり2012年01月03日 01:17


月齢2.788


 お正月はおめでたい。家々では門松を立ててお祝いする。氏神さまや菩提寺に参り、新しい年の幸せをお願いする人も多い。お正月は、大人も子供もみんな楽しそうである。
 私が子供のころは、新正月、旧正月といって、お正月が二度あった。明治六年に、それまでの太陰暦が、世界共通の太陽暦に改められた。それで、旧暦がなつかしかったのかもしれない。
 太陽暦は、一カ月を、地球が太陽の周りを一周するのは三百六十五日とし、ほぼ十二等分している。太陰暦は、月が地球を一周する29.5日で、誤差は閏年を設けて調整している。
 旧暦は、なつかしいだけでなく、いまも役に立つという。「旧暦はくらしの羅針盤」「旧暦と暮らす~スローライフの知恵ごよみ」という本が、出版されている。旧暦のカレンダーもある。
 農作物は、ハウス栽培や輸入物が増え、食べ物の旬がわかりにくくなっている。栄養があって値段の安い時期は、旧暦に照らすとよくわかるという。いまも、旧暦で種まきする農家もある。
 月は満ちたり欠けたりする。海には満潮と干潮があり、大潮の時もある。これは、月と地球の引力で起こるそうだ。釣りを楽しむ人は、旧暦のサイクルが便利だといわれる。
 新春といっても、寒さがきびしいと違和感がある。旧暦は一月から三月までが春である。一番春らしくなるのは、二月だそうだ。旧暦を目安にするのも、よいかもしれない。
 
   


  新年や 老いも若きも 幸せに


(投稿時期不明)

満月

公園の夕暮れ

◆ 長寿 ◆ コラムままかり 20042011年12月08日 17:43

 今年の敬老の日は9月20日である。我が国は長寿者が多くなった。65歳以上の人は3,457万人で、総人口の19%にあたるという。このうち、百歳以上の人が20,560人いる。

 日本は、世界の長寿国になっている。平成15年の平均寿命は、女性85.33歳、男性78,36歳である。今、人生八十年といわれているが、人生百年になるかもしれない。

 江戸時代の古文書に、満平さんという人が243歳まで生きた、と記されているそうだ。そして、その息子さんは193歳、孫の嫁さんは137歳まで生きた、といわれる。

 A新倉敷には、お年寄りの方が多い。皆さんお元気そうである。だれも、健康で長生きできるとよい。このごろ、九十歳代でまだ仕事をしている人が、大ぜいいるそうだ。

 長生きできるか、どうかは、遺伝的と環境的の二要素が考えられるという。遺伝はどうにもならないかもしれない。でも、環境的なことは自分の意思で変えられる。

 大食い、塩分の取りすぎや、タバコ、ストレスなどは、寿命を妨げるそうだ。それに、運動不足もよくない。一方、仕事が好きだったり、人付き合いがよいのは、長寿の一つになるという。

 私は、新聞社で34年仕事をし、定年退職してから、県庁に28年勤めた。また、教育委員を12年している。それで、なにとはなしに89歳まで働いた。


  指折りつ 若きころあり 今むかし


2004年

◆ 太陽 ◆ コラムままかり 2001.012011年11月27日 01:36


 ある旅行作家が、「日と月は永遠に旅をしている」という。太陽は、地球から一億五千万キロも離れていながら、さんさんと輝き渡り、私たちに天の恵みを与えてくれている。それに、どこにいても日の出がすばらしい。悠久の天体の美であろうか。

 中秋から冬には、A新倉敷のカサブランカから、朝日がよく見える。ちょうど、一同ホールで朝食のころである。高架自動車道の東方に、真んまるい真っ赤なお日さまがぽっかり浮かぶ。あちらこちらで「まあーきれい」と言われる。ほんとうに美しい。

 去年(こぞ)今年、森羅万象、なにも一日で変わるわけではないが、新年の一月一日は初(はつ)日である。今年の元日は、朝曇っていたがやがて東の空が明るくなり、午前七時半ごろ、お雑煮をいただきながら初日の出を迎えた。この日の太陽は、いつもよりいちだん赤く、ひとまわり大きいように思えた。

 私は、昨年五月に丸亀から倉敷へ移ってきた。岡山県の地図を広げ、珍しい町名にひかれた。和気郡の日生町で、「ひなせ」と呼ぶそうだ。日が生まれるとは、なんと縁起のよいことであろう。ここを通っているJR赤穂線に日生駅もある。街々は、陽光に満ちあふれているのだろう。

 太陽にちなんだ駅では、島根県木次町にJR木次線の日登(ひのぼり)駅がある。山間で、連峰に日が映え美しい景色が楽しめそう。また、滋賀県の蒲生町と日野町の間に、近江鉄道本線の春日野駅がある。この辺りは鈴鹿山脈と琵琶湖に囲まれた平野で、一面に日が差しているようである。


  初日出づ 雑煮いただく 佳き年に

ことばの歩道2011年11月17日 10:30


 私は、大阪で、学生時代に、ある業界新聞のアルバイトをしたことがある。それがきっかけになったかどうかはわからないが、新聞社に勤めるようになった。そして、定年退職後も、歴史ものの編さんや広報の仕事に携わり、今に鉛筆をにぎっている。

 だれでも、ふだん、日記をつけたり、手紙を出したり、覚え書きをするなど、意外に文章をつづることが多い。文章を書くのが好きな人がいれば、嫌いだという人もいる。それにしても、文章が書けるということはよいことだと思う。文章を書くのはそんなにむずかしいことではない。ただ、ことば遣いには気をつけなければならない。

 漢詩の修辞法に「起承転結」というのがある。第一句で詩思を提起し、第二句でそれを受け、第三句でさらに変化させ、第四句で締めくくる。ことばを有効適切に表現するこつである。これは一般の文章にもいえる。

 文章を書くにはひとつの取り決めごとがある。それは、「常用漢字表」「改正送りがな」「現代かな遣い」である。これはひとつの目安とされ、必ずしも守らねばならないものではない。しかし、官公庁や報道機関などは、率先してこれを使うことになっている。私たちも、できることなら現代国語をよりどころにしたい。

 一般の文章は口語体で書くのがよいと思う。言文一致ということばがある。文章のことば遣いを、話ことばに合一させることである。明治のはじめに言文一致運動が起こり、それまで文語体で書かれていた文章が口語体になった。ふだん話していることを、文章にあてはめればよいわけである。

 文章が上手になるにはいろいろなことが考えられる。なにより書いてみることである。そしてよく文章になじむ。新聞や書物のすぐれた文章をよく読むのもよい。有名な作家でも人の文章をよく読むといわれる。どちらかといえば、いま、いちばん日本語の適切な使い方をしているのは、新聞ではないだろうか。

 どんな文章がよいかといえば、もちろん、読みやすくて意味がよくわかることである。ひといきひといきにすらすらと読めるのがよい。政治家や官公庁は、よくむずかしいことばを使っている。むずかしいことばを使うのが、偉いとでも思っているのだろうか。口語文でも名文は書けるはずである。

 文章はやさしいのがよい。そして、きれいなことばを使い、相手に失礼にならないことである。読みやすいためには、読点や句点を適当につけることも忘れてはならない。

 最近は、ことばがたいへん乱れているように思う。とくに若い人のなかに多い。「こられる」を「これる」とか、「見られる」を「見れる」とか、「出られる」を「出れる」など、いくらでもある。「青春しよう」「勝利する」というのも、おかしい。

 文章には敬語がたいせつだが、なにも使い過ぎることはない。敬語は、相手の物ごとを表す場合に用い、自分の物ごとではあるが、相手にかかわりのあるときにも使う。夫に「してやる」といい、子どもに「してあげる」などというのは、間違いだろう。なかには、ペットに「えさをあげる」といったりする。

 敬語をつけては変な場合もある。「おテレビ」のお、「お靴下」のお、「ご芳名」のご、「ご令息」のごなどで、これらはつけなくてよいものである。ただ、「お米」のお、「お菓子」のお、「お茶わん」のおなどは、男性としては省けるが、女性のことばとしてはつけたほうがよさそうである。

 あるバスの中で、「両替する人」と書かれていたことがあった。ある鍼灸院の前に、「わざわざ遠いところから訪ねてくる」というのもある。これは、「両替する方は」とか、「両替はこちらで」に、また、「わざわざ遠いところから訪ねてこられる」というふうに、すべきである。そうでないとお客さんに失礼にあたる。

 「踏まえて」とか、「たたき台にして」などというのは、けっしてよいことばとはいえない。こんな下品なことばが、なにげなく使われているのはどうかと思う。

 熟語は、自分勝手に作ってはいけない。学者が考えつき、それが権威のある辞典に載って、はじめて使われるものである。最近、スポーツ紙を見ると、「無残」を「夢散」、「強打」を「脅打」、「待望」を「待砲」などと書いている。しゃれだろうとは思うが、スポーツ紙は若い人がよく読むので、心配でならない。

 重言にも気をつけなければならない。「まず最初に」とか、「いまの現状」「前に前進」、「最後の追い込み」、「製造メーカー」など、よく使われている。「瀬戸大橋の架橋」などというのもよくない。「馬から落馬した」は、悪文の典型的なものといわれている。ただ、短歌などで意味を強めるために、「ぬれにぞぬれじ」などと書くのは、許されてよいだろう。

 文章は、独り合点になってはいけないと思う。自分だけがわかっているつもりでは、相手に伝わっていかない。文章を書くからには、相手に通じなければその意味がない。文章を書いたときは、よく読み返してみることである。このようなことを考えて、よい文章を書きたいものである。


(丸亀市文化協会機関紙「城苑」 1996年刊行より)